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『無』の哲学 1 [分離唱研究]

《分離唱研究》 その7 『無』の哲学 1

 『分離唱』というのは佐々木基之先生が提唱し始めたのですが、その元になったのが園田清秀氏の音感訓練です。当時八歳の子供であった園田高弘氏(後にピアニストになった)が偶然のきっかけから音感保持者になったことを知り、そのピアノの演奏能力に驚かされたのがきっかけです。
 当時佐々木先生は小学校の音楽専科の教師。どうやったら子供たちに音感訓練のきっかけを与えられるのか、悩んだようです。園田清秀氏の音感訓練は1体1で行うものですが、学校の教室では1対多人数ですから。
 しかし、ピアノで和音を弾き、その状態で1音を歌わせてみて、次に三つのグループ例えばC,E,Gに分けて歌わせたところ、三つの音の重なった子供の声の美しさに感動したといいます。
 この「三つの音の重なった子供の声の美しさ」という響きが分離唱ハーモニーの原点です。

 ハーモニーを単に響きが合った状態と捉えるとこの「三つの音の重なった子供の声の美しさ」の意味がわからなくなります。
 音さえ合えばどこでもハーモニーだろうと考えると音楽の奥深さは見えなくなります。

 音楽を「メロディー」「ハーモニー」「リズム」と形の上での捉え方ではその本質を見逃してしまうのではないでしょうか。

 佐々木先生が初めに感動した「三つの音の重なった子供の声の美しさ」という響き合いの状態の他にもう一つ欠かすことの出来ないことがあります。

 それが、聴き手の内的な状態です。誰もが同じ場面に遭遇してもその捉え方は十人十色。夫々に違うということですが、ここでは「みんな違ってそれでいい」ということではありません。聴き手の心の成熟度合いが聴き方の違いとなります。

 深い聴き方と浅い聴き方が存在します。浅ければ浅いほど表面をなぞるように聴くこととなり、音楽の色合いとかその内に秘めた小宇宙の存在を知ることが困難となります。

 ここに『聴き方の技術』というものがあるのです。




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実践和音聴音 [分離唱研究]

人間を変える。

人は変わらなければならない。

人格の否定。


それは、その人の持つ自我の否定に他ならない。

そう。昔、佐々木先生が弟子のレッスンを通してきついことをよく言 っていた。

私は自分のレッスンの日には朝からずっとお宅にへばりついていたの でよく分かるのですが、随分厳しい言葉をかけられていた人がいたことは事 実です。

私は、と云えば、初めの頃、和音聴音で叱られた。

「頭で考えて言うな!」と言われてしまうのだが、だといってどうし て良いのかよくわからない。

基本和音が全部で26個ありますが、

「マスターしたかな」と先生が認識すると新しい和音を一つ投入して きます。

そして、その半分を過ぎた頃からだいたい15から16個目くらいに なると答えられなくなってきました。

和音の名前は覚えているのですがとっさには出てこない。

「あれだったか、これだったか?」などと思っている内に時は過ぎて いく。

そしていつも雷が落ちるようになる。

しかも逃れる術は持ち合わせていない。

「どうすりゃいいのさ?」

分離唱はちゃんと出来ているからか、何も文句は言われません。
サッとやってサッと終わる。

和音聴音と分離唱、どこが違うのだろう?

私の受けた音感訓練は佐々木先生によるレッスンだけです。
それ故他の人たちの訓練は知りません。人伝に何となく聴こえてはき ますが、「ああそうか」位のものです。

佐々木先生の和音聴音はとにかく速い。
機関銃のように和音を叩いてくる。
それを瞬時にこたえていかなければならない。
人によっては先生の弾くピアノより早く答える人がいた。
「オイ!答えを用意しておくな!」
なんて言われてね。

「アッ!、アッ!」なんて騒いでいるうちに完全に通りすぎてしまい ます。
これは、この文章で覚えるよりは実際に体験してみるといい。

あるとき私はこう考えた。

「どうせ叱られるんだ。だったら全部いい加減に答えてやれ!」

これを破れかぶれという。

このことが私の心に不思議な現象を引き起こした。

いい加減に答えているのは私ではないということ。

私は単に答えるための耳と声を貸しているだけに過ぎないという感覚 。

もともと、いい加減に答えていたのだから合っていようがいまいが知 ったことではない
ましてや私の責任でもない。

ところが、これが奇跡を起こした。

いい加減さん』が上手に答えてくれたのです。良い加減に答えてくれたのです。

はぁ?

一気に基本和音をマスターしてくれました。
私自身は自信がない(洒落じゃないですよ)
実感がありません。

その後、黒鍵も入った和音を聴きましたがこれもいい加減に答えまし た。

私にとって収穫だったのは、私の中に私ではない何かが存在している ということでした。それまでの私は単なる自我のかたまりだったので す。

「人格否定はいけない」という人がいます。
その否定された人格とはいったい何でしょう。
もう少し、自分を観察してほしい。

人を変えてはいけない、変わってはいけないという人がいます。
変わらなくて良いのなら今の社会そのままでいいのです。
教育も要りませんね。
そういう人は混沌とした社会の中で生きていけばいいのです。

私はいやですけれどね。
因みに、根拠のない理屈も嘘も大嫌いです。
今、世界は嘘つきだらけです。
平気で嘘をつきます。
嘘が嘘を呼びまたその上塗りをする。
収拾が付かなくなります。
だからこそ、せめて音楽の世界ではそんな嘘はやめましょうね。




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190805ウォーキング瞑想 [分離唱研究]

今朝は、これまでと違って少しだけ涼しさを感じる。
ただ東の空に雲がなく、日の出と共に強い太陽光線が目に飛び込んできた。紫外線かしら、肌に刺さるようです。

草むらから何やらコロコロと鳴き声が聞こえる。
今年になって初めてのこと。たぶんコオロギでしょう。
秋の気配は朝から始まるのかなあ、などと考えながら歩いた。

私が分離唱ハーモニーと出合ったのはかれこれ半世紀近くになる。

ハーモニーは元々合唱から生まれるものです。

合唱に惹かれる人たちはそのようなハーモニーの響きに魅了されるのだろうと思います。

私も当時そんな仲間の一人だったのではないかと思います。

しかし、大学の合唱団でいざうたったとき、それ以前思い描いていたハーモニーに出合うことはなくなっていったようにも思います。

歌が好きでハーモニーの美しさにも感動を覚えていた私がどうして倦怠感を覚えるようになったのでしょう。

慣れてしまったためによる単なる『飽き』ならば、それはそれでまた何か考えようもあろうというもの。

音楽好きであったはずが音楽嫌いになってしまった。

今日の帰宅は6時だというのに陽射しの強いこと。
まだ夏だ。


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分離唱研究 その5 音楽と文学 [分離唱研究]

音楽と文学
 こんな題名を付けてみたものの、難しい学問談義のためのものではありませんヨ。
 別の言い方をするならば、『音とことば』ということでしょうか。『餅屋は餅屋』と言いますね。それぞれの得意分野ということでしょう。私たちは人生の潤いのためにさまざまなことに挑戦しています。ある人はスポーツを通して、またある人は絵を描いたり、野菜を育てたり、そして合唱したり、カラオケしたり、バンドを組んで演奏したり、読書もあります。いったいどれほどの生き方があるのでしょうか。見当も付きません。
 そんななか、『音とことば』の『音』というのは、音を奏でることによって音楽で表現することのできる世界をわたしたちの心の中に出現させるのです。また、『ことば』について、文学はことばの世界観によって読む人の心の中に文字の力によってその目的とする世界を心の中に出現させるのです。
 音楽は言葉で表すことのできない『響き』という音楽の世界から私たちの心に働きかけて独特の世界へ誘ってくれます。文学は同様にことばの力により私たちの心に働きかけてこれまた独特の世界へと誘ってくれるのです。
 ことばから入る世界と響きから入る世界とは同じかどうかはわかりません。似ているかも知れませんが少なくとも音楽は音による刺激が初めにあります。そこにはどうやら事前準備に当たるような基礎知識は必要ありません。しかし、文学はその文字を読解できるだけの能力をもった人だけがその特殊な世界へと入ることを許されます。
 音楽が世界共通語と言われる所以はこんなところにあるのでしょう。

 さて、音楽を楽しむのに基礎知識は必要ありません、と言いました。ところが、音楽を様々に解説する人が出てきました。解説するために『ことば』という文学のちからを借りているんですね。先ほど述べたようにことばは単にことばであってそれは文学のためのツール、道具なんですね。文学のための道具で音楽を知ることはできません。なぜならそれぞれがそれぞれの得意分野で活動しているのですから。音楽は音によってでしか表現することはできないんです。それは音の世界、響きの世界なのです。
 そういえば、テレビでは『グルメレポーター』なる人が存在し、あちこちの店に立ち寄って料理を口に運び、「んーん、おいしい」「この食感は宮城産の鮑に似ている」「風味もよし」などといって視聴者の口中のヨダレを誘うのです。しかし、どう言ったところでどう表現したところで実際に自分の口で食べることに勝てるはずもありません。
 音楽家は音の響きの中で人を誘う以外に手段はないのです。『音屋は音屋』、『言葉屋は言葉屋』ということでしょう。音楽家が言葉屋に魂を売ってしまったならもう音楽家ではないのです。


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分離唱研究 その4 やり方 [分離唱研究]

分離唱のやり方

 分離唱のやり方について簡単にご説明します。 教師はピアノで和音を弾きます。基本的にはどのような和音であろうと構わないのですが、奇をてらう必要は全くありませんので生徒が分かり易い和音が良いのです。
 通常 CEG(ドイツ音名でツェーエーゲーと言います)を、ペダルを踏まずにスタカートで1秒おき位に打鍵し続けます。そしてその間に教師は例えば、「エー」と言います。これはE(エー音)を出してくださいということです。生徒は「エー」と言いながらCEGの全部の和音の響きを聴くのです。生徒の聴くための心構えとしては出している音と共に他の全ての音を聴くのです。それが出来たならC(ツェー音)、G(ゲー音)という具合に出す音を変えていきます。ひとしきり声を出したなら例えばCFA(ツェーエフアー)の和音に変えます。そして前述と同じように声を出させて同時に聴かせていくという作業です。これを様々な和音で行います。
 この一連の作業を『分離唱』と言います。
 通常、この後に生徒を任意の三つのグループに分けて夫々にC,E,G音を担当させて声を出し、ハーモニーを作っていくのです。これら一連の作業によって生徒の耳は『聴く技術』を獲得することが出来ます。それは生まれながらに本来持っていたであろうハーモニー感覚です。それが身についた人たちはひとたびハーモニーのある合唱をしたとき本当の美しい響きを手に入れることが出来るのです。  これまでの合唱曲を完成させていく作業とは全く異なった方法で曲を仕上げる事ができるようになるでしょう。
先ずはやってみましょう。


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分離唱研究 その三 自我の表現 [分離唱研究]

分離唱研究 その三 自我の表現

私たちは生まれ落ちてからこの方、脳細胞にあらゆる知識、あらゆる経験を保存してきました。そしてそれらを基にして更に体験を積み重ね、広く充実した人生を送ってきた訳です。
しかしながらこのような経験は果たして私たちを有意義な人生に導いてくれたのでしょうか。子供の頃は楽しかった何気ない日常生活。ほんの些細なことでも喜び、楽しむことができた。それが、年を経るに従って次第に色あせて夕日が西の空に沈みねずみ色になって消えていくが如く楽しみや喜びは失せていったのではないでしょうか。知識や経験は日々の生活の中に深く入り込み、むしろ私たちに窮屈な行動を強いているのではないでしょうか。『自我』というのは知識や経験のことです。それらは物事をなし遂げようとしたり、技術革新のためには当然のことながら必要なものです。しかしながら私の言う自我とはそういった意味ではなく、ものを見たり聞いたり、観察したりするときに動く心のことです。
 紙やキャンバスに絵を描く姿を想像してみましょう。紙やキャンバスが真っ白ならばその上に描く色も線もしっかりとその姿を残します。しかるに、その紙やキャンバスが様々な色や線で既に描かれていたならばどうでしょうか。その上に描いたところで、こころのままの描写はできません。もとあった色や線が邪魔をして自分のこころはそれとダブり、何が何だかわからないような絵になってしまうのではないでしょうか。
 もとあった色や線というのが、おのれの自我のことなのです。人間、幼少の頃はそういった自我が未発達なため、既成概念をもってものを見ることができないのです。つまり、幼い子供というものは純真なこころでものを見たりきいたりするほかないのです。年が行き自我の発達にともない、喜びや楽しみが消えていくのは人間にとって必然なのです。昔のこころに戻りたいと言ったところで、その『戻りたい』という気持ちそのものが既に自我なのです。人間は成長するに連れ、自己防衛や自己実現のために知識を得てきたわけですが、そのことによって人間が本来持つ美しさを捨ててしまったのです。
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分離唱研究 その二 生きた存在 [分離唱研究]

 ハーモニーというものが、純正律で音が調和していることを指すのならば、これはエレクトロニクスを使っても作り出すことが出来ます。電気的に倍音を作り振動周波数を揃えていけば完全なひゞきを作ることは出来ます。

 それをハーモニーと呼ぶならばハーモニーは練習を積み重ねて行けば何とか作ることは出来るでしょう。これらは間違いなく美しい響きとなるはずです。

 私は敢えてここで言いますが、私の言うハーモニーはそれではありません。では一体何なのだという疑問は当然ながらあるでしょう。恐らくはこの疑問に答えることは出来ないと思います。なぜならハーモニーは作るものではなく、もともと生きた存在であるからです。実際にハーモニーの体験をしたことのある方ならばわかるでしょうが、そうでなければこのハーモニーに対して何の値打ちも感じないでしょう。

 分離唱は生きたハーモニーを感じるための心の準備をする訓練なのです。私たちは普段、生活の中において自分の感覚、自分の判断などに対して疑問を微塵も感じないのが普通です。しかしながら、その感覚に千差万別、人それぞれというが如くにあるのも事実です。なぜ、このように人それぞれ感覚が違うのか? 私はこれが人の持つ自我だと思うのです。
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分離唱研究その1 分離唱の効能 [分離唱研究]

『分離唱の効能』などと書くと、何やら漢方薬の一種かしら? などと思われるかも知れませんね。

 この『分離唱』という言葉を基に検索をかけた人にとっては当初から分離唱がどういうものであるのか、というおよそのことを知っておられると思います。 従って、ここで言う効能とは、分離唱が何をもたらすのか? ということに尽きます。
 わたしも分離唱に接してはや、40年近くになります。その間、間断なく続いていたわたしの関心事は、分離唱は果たして何をもたらすのだろう? どんな働きがあるのだろう? ということでした。
 わかりやすく譬えで言いますと、「初めて行ったレストラン。食事を注文しました。そこで出てきた食事は様々でしたが、食べてみると美味しいのなんの、まるでこの世のものではありません。世の中にこれほど美味しいものはあったのか!! まるで夢見心地でした。しかし、時が経てば夢は覚めます。さて、あのおいしさは何だったんだろう? どうして、わたしはあれほどに心地よくなれたのか?」 といったところでしょうか。

 分離唱はそれを行い、ハーモニーをつくっていく訓練方法です。分離唱の創始者である佐々木基之先生は、分離唱を行えば誰でも簡単にハーモニーをつくることができる。とおっしゃっていいましたが、そこは、もう一言加えて、「正しい分離唱を行えば」としなければなりません。

 そのように分離唱を行うことによってハーモニーをつくりだすことができます。 多くの皆さんは、「分離唱などやらなくてもハーモニーは出来るよ」とおっしゃるだろうと思います。 わたしはその言葉に対してこう答えます。「勿論できます」しかしながら、ハーモニーといっても皆さんが思い描いているハーモニーとわたしの抱いているハーモニーとは、もしかしたら、違いがあるかも知れません。なければ良いのですが‥‥。

 ですから、わたしは誤解のなきよう、分離唱を基礎としたハーモニーのことを「本当のハーモニー」と言い、それ以外をハーモニーではない、と断言するのです。
 きつい言い方かも知れませんが、これが真実です。これまで多くの合唱を聴いてまいりましたが殆どハーモニーはありません。不思議なことです。ハーモニーがなくて何故皆さんは音楽が出来るのでしょうか?

 音楽の三大要素はメロディー・リズム・ハーモニー、といいます。音楽はこの三つから成り立っているんだよ。というのです。ですから、ハーモニーは単純に言うならば重要さにおいて1/3というわけなのですね。それに、完全ではないにせよそこそこのハーモニーは有るだろう、という自負心があります。

 これではアウトです。そのことをこれからポツリポツリとこのブログを読んで下さる方のために書いていきます。
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