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実践和音聴音 [分離唱研究]

人間を変える。

人は変わらなければならない。

人格の否定。


それは、その人の持つ自我の否定に他ならない。

そう。昔、佐々木先生が弟子のレッスンを通してきついことをよく言 っていた。

私は自分のレッスンの日には朝からずっとお宅にへばりついていたの でよく分かるのですが、随分厳しい言葉をかけられていた人がいたことは事 実です。

私は、と云えば、初めの頃、和音聴音で叱られた。

「頭で考えて言うな!」と言われてしまうのだが、だといってどうし て良いのかよくわからない。

基本和音が全部で26個ありますが、

「マスターしたかな」と先生が認識すると新しい和音を一つ投入して きます。

そして、その半分を過ぎた頃からだいたい15から16個目くらいに なると答えられなくなってきました。

和音の名前は覚えているのですがとっさには出てこない。

「あれだったか、これだったか?」などと思っている内に時は過ぎて いく。

そしていつも雷が落ちるようになる。

しかも逃れる術は持ち合わせていない。

「どうすりゃいいのさ?」

分離唱はちゃんと出来ているからか、何も文句は言われません。
サッとやってサッと終わる。

和音聴音と分離唱、どこが違うのだろう?

私の受けた音感訓練は佐々木先生によるレッスンだけです。
それ故他の人たちの訓練は知りません。人伝に何となく聴こえてはき ますが、「ああそうか」位のものです。

佐々木先生の和音聴音はとにかく速い。
機関銃のように和音を叩いてくる。
それを瞬時にこたえていかなければならない。
人によっては先生の弾くピアノより早く答える人がいた。
「オイ!答えを用意しておくな!」
なんて言われてね。

「アッ!、アッ!」なんて騒いでいるうちに完全に通りすぎてしまい ます。
これは、この文章で覚えるよりは実際に体験してみるといい。

あるとき私はこう考えた。

「どうせ叱られるんだ。だったら全部いい加減に答えてやれ!」

これを破れかぶれという。

このことが私の心に不思議な現象を引き起こした。

いい加減に答えているのは私ではないということ。

私は単に答えるための耳と声を貸しているだけに過ぎないという感覚 。

もともと、いい加減に答えていたのだから合っていようがいまいが知 ったことではない
ましてや私の責任でもない。

ところが、これが奇跡を起こした。

いい加減さん』が上手に答えてくれたのです。良い加減に答えてくれたのです。

はぁ?

一気に基本和音をマスターしてくれました。
私自身は自信がない(洒落じゃないですよ)
実感がありません。

その後、黒鍵も入った和音を聴きましたがこれもいい加減に答えまし た。

私にとって収穫だったのは、私の中に私ではない何かが存在している ということでした。それまでの私は単なる自我のかたまりだったので す。

「人格否定はいけない」という人がいます。
その否定された人格とはいったい何でしょう。
もう少し、自分を観察してほしい。

人を変えてはいけない、変わってはいけないという人がいます。
変わらなくて良いのなら今の社会そのままでいいのです。
教育も要りませんね。
そういう人は混沌とした社会の中で生きていけばいいのです。

私はいやですけれどね。
因みに、根拠のない理屈も嘘も大嫌いです。
今、世界は嘘つきだらけです。
平気で嘘をつきます。
嘘が嘘を呼びまたその上塗りをする。
収拾が付かなくなります。
だからこそ、せめて音楽の世界ではそんな嘘はやめましょうね。




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