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分離唱研究 その三 自我の表現 [分離唱研究]

分離唱研究 その三 自我の表現

私たちは生まれ落ちてからこの方、脳細胞にあらゆる知識、あらゆる経験を保存してきました。そしてそれらを基にして更に体験を積み重ね、広く充実した人生を送ってきた訳です。
しかしながらこのような経験は果たして私たちを有意義な人生に導いてくれたのでしょうか。子供の頃は楽しかった何気ない日常生活。ほんの些細なことでも喜び、楽しむことができた。それが、年を経るに従って次第に色あせて夕日が西の空に沈みねずみ色になって消えていくが如く楽しみや喜びは失せていったのではないでしょうか。知識や経験は日々の生活の中に深く入り込み、むしろ私たちに窮屈な行動を強いているのではないでしょうか。『自我』というのは知識や経験のことです。それらは物事をなし遂げようとしたり、技術革新のためには当然のことながら必要なものです。しかしながら私の言う自我とはそういった意味ではなく、ものを見たり聞いたり、観察したりするときに動く心のことです。
 紙やキャンバスに絵を描く姿を想像してみましょう。紙やキャンバスが真っ白ならばその上に描く色も線もしっかりとその姿を残します。しかるに、その紙やキャンバスが様々な色や線で既に描かれていたならばどうでしょうか。その上に描いたところで、こころのままの描写はできません。もとあった色や線が邪魔をして自分のこころはそれとダブり、何が何だかわからないような絵になってしまうのではないでしょうか。
 もとあった色や線というのが、おのれの自我のことなのです。人間、幼少の頃はそういった自我が未発達なため、既成概念をもってものを見ることができないのです。つまり、幼い子供というものは純真なこころでものを見たりきいたりするほかないのです。年が行き自我の発達にともない、喜びや楽しみが消えていくのは人間にとって必然なのです。昔のこころに戻りたいと言ったところで、その『戻りたい』という気持ちそのものが既に自我なのです。人間は成長するに連れ、自己防衛や自己実現のために知識を得てきたわけですが、そのことによって人間が本来持つ美しさを捨ててしまったのです。
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