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不毛の臨時国会に思う [日記]

《臨時国会に思う》

今朝は小雨のためウォーキングはしなかった。だが、夜が明けて雨は止んだ。

秋の臨時国会が始まった。政治の世界は相変わらず発展性はなさそうだ。頭の良いと思われる?国会議員の方々がどうして愚にも付かないような議論で時間つぶしをするのだろうか。これこそが税金の無駄遣い。

これからの日本の行く末をどう考えているのだろうか。

 とはいえ、本当の意味での議論はとても大切だと思います。そのためには、議論の出発点がどこにあるのかを議論し合う同士が確認しておく必要がありますね。今時の国会論議はこの辺りがとてもあやしい。憲法改正についてもそうだ。議論をしようと言ったところで時期尚早という。まだ議論が為されていないともいう。しかし、これは今の日本国憲法が施行されてからもう72年経っています。そして、それがまだ有効に働いているのなら「時期尚早」と言っても良いでしょう。

 ご存知のように日本国憲法ではその中の第九条で日本は戦争を放棄しています。戦争はやらないと言っているいるのですね。別の言い方をすれば、日本は相手がいくら攻撃を仕掛けてきたとしても応戦することはない、と言っているのです。

 戦わないと言っているのですから、当然そうなるでしょう。日本民族は滅びても良いと言っているのですね。
 これを日本の左翼は主張しているのです。

もし「そんなことは言っていない」というのなら、「ではどうするつもりなのだ」と言いたい。
その回答は「話し合いをすればいい」ときます。

では、戦争ではないが北朝鮮に拉致された日本人はどうなる?と言いたい。
これが明るみに出てこの事件が日本人の共通認識になった現在、どうしても解決することが出来ない。糸口もない。これが国際社会で話し合いによる解決を目指す姿と言えるでしょう。

戦争は悪だと多くの人が思っています。私も嫌ですね。

でも、やらなければならないときもある。

これが『松の廊下』じゃないけれど、「やむにやまれず」ということでしょう。
戦争は外交による最後の解決手段なのです。これが世界の常識です。

互いの国が「自分こそ正しい」と思っています。
ですから、一歩も引くということがありません。

インドとパキスタンの国境にあるカシミール地方の紛争もその良い例でしょう。

それと、もう一つ。国際法によれば、自衛のための戦争はどの国でもその権利を持っているといいます。

つまり、日本のように戦争放棄をした国であっても、自衛戦争は認められているのです。ただ、最初の一撃は食らうでしょう。そのとき誰かが犠牲にはなるのでしょうね。

やられて初めてやり返すというのです。
ああ、そうかと思うかも知れませんが、戦後の日本はやれれてもやり返したことは一度もありません。

1954年に韓国の初代大統領李承晩が「李承晩ライン」という国境線を勝手に引いて竹島を不法占拠した時も、日本は手出しをしませんでした。それだけではなく、そんな辺りで漁業活動をしていた日本の漁船が拿捕されたり銃撃されて死亡したりと多くの被害を被っても一切反撃しませんでした。

正直、いったいこの国(日本)はどうなっているのだろうか?と思いました。
今も現在進行形の形で日本の領土や領海が脅かされていますが、それに対抗するための法的手立てがありません。
このことを議論しようと言っているのが日本国憲法論議なのですが、それが一向に進まない。

自分のところに鉄砲玉が飛んでくるわけではありませんから、どうということはないと思うでしょうけれど、国家というものは僅かな部分を失うことを認めたときその国は滅びるというのは過去からの世界史の教訓です。
私たちは、この国あっての私たちの生活があるのであって国がなければ生活もありません。現在のシリアをごらんになれば分かるのではないですか。彼らの惨状をたとえテレビ画面だとしても見て、何も感じないようでは人間失格でしょう。

 国内にも右翼、保守、リベラル、社会主義者、左翼といるのは承知していますが、『日本をどうしたいのか』、『日本というお国柄はどのような姿で継承していったら良いのか』というところから議論を始めないことには、国会論議は決してすすまないでしょう。ましてや、わかり合うことなど、できっこありません。

臨時国会を眺めていて、そんなことを考える今日この頃でした。





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