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若きピアニスト アリス・紗良・オットさん [ウォーキング瞑想]

《若きピアニスト》
今日は早めに家を出て未明のウォーキング瞑想を済ませ、NHK-BSクラシック倶楽部を見た。アリス・紗良・オットさんという若手のピアニストの演奏をやっていた。初めて聞く名前でしたが興味深く聴くことが出来ました。
サティ(ジムノペディ 第1番)とラヴェル(夜のガスパール、亡き王女のためのパヴァーヌ)。
ナイトフォールという題名で青い光を使って夜景の雰囲気を出していました。
変わっている人だなぁ、というのが第一印象。
曲は丁寧に弾いていたが、演奏中に中空を見つめるさまはどうかすると空中を彷徨う霊を見つめているようですらあってちょっと不気味。
でも、そんなになるのかなぁ、という印象。ピアニストだから弾けて当たり前ということではあるけれど、そこまで深く入っているようには感じられなかった。

この方は父親がドイツ人、母親は日本人だという。

変わっているといえば、右手人差し指と左手中指に指環をしたままピアノを弾いていた。ピアニストで指環をしているのは珍しいのではないか。ただ、それが演奏の邪魔をしていることはなかった。

それともう一つ、ステージの上には裸足で入るという。

何とも奇妙ではあるが、演奏そのものはちゃんと弾いていた。

若く美人だし、独特の個性であり、これから世界中にファンが増えるのではないかと思いました。


演奏をホールで直接聴いた人は、熱演ぶりに虜になってしまったという。
こういった演奏家が出てくる事は嬉しいですね。


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日本の選択は?190918 [ウォーキング瞑想]

《日本の選択は?》

気になるニュースがあった。一昨日のこと。
「ソロモン諸島、台湾と断交=中国と国交樹立」とあった。
「台湾外交部(外務省)はこれを受け、ソロモンとの即時断交を発表した。」
蔡英文総統は厳しい選択を迫られたのだろう。

中国は多額の経済援助を通じ、太平洋諸国での影響力を拡大してきた。今回もソロモン諸島へ中国の軍港をつくる計画だという。
「着々」という言葉があるが、中国はまさしくそのように動いている。他国のように数年に一度選挙があり、政権が入れ替わるのと違って民心にさほど配慮することなしに物事を決定・実行できる国は強い。
太平洋地域でも米国を中心にオーストラリアや日本と同盟を結んでいても、それらの間隙を縫って金に物を言わせて楔を打つやり方はまともな頭から見れば汚いと思えるが、それでもなびいてしまうのが今の世界の現状だろう。
日本の報道では、中国共産党政権は経済的に苦境に立たされているという。この報道と先のソロモン諸島への進出は相反する行動に思えるが、日本から観た場合、困っている中国は怖くないという判断と、一方ソロモン諸島を中国の意のままに動く地域として、仮に米中開戦になったときは米国が不利になるというシナリオも成り立つ。

世界情勢は恐ろしいほどの速さで動いている。サウジアラビアとイランの関係性も然り。

情報の薄い私たちにとって願うのは、こんなことで争いに巻き込まれるのは御免だ、ということと、果たしてそうされないようにするための準備が日本国には出来ているのだろうか、ということですね。

ウォーキング瞑想を終えて帰宅。
パチリと点けたテレビの中で原田英代さんのピアノリサイタル映像が流れていた。
ラフマニノフの「コレッリ変奏曲」と「前奏曲」、チャイコフスキーの四季より「六月 舟歌」。
何故か、聴けた。大写しになった鍵盤上を動く指は太く逞しかった。
彼女なりの良さが現れた演奏だと思った。
こういう演奏が増えてくれると嬉しい。

いつになったら世界は落ち着くのだろう。
えぇ? それは幻想だと? 諸行無常ですか。
これが人類のもたらす弊害‥‥。
人類そのものが地球の公害なのでしょうか。





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福島の海の幸 [ウォーキング瞑想]

《福島の海の幸》

ほぼ毎朝ウォーキングしていると、最近では歩かないことが一日の始まりのけじめをつけてくれないような不思議な感覚になる。
一日1時間という時を歩いて過ごすことはかなりのものだ。それをただシェイプアップのためだけに歩いていたのではとても勿体ない。
逆に、ウォーキング瞑想をしているぶんには様々な考え事もしがらみなしにまとまってくるのでむしろ昼間の1時間よりも有効に思えます。

今朝の南西の空は雲がなく満月を少し過ぎた月が中空に輝いて浮いていた。何というのだろう? 立待月か。暗い道を照らしてくれている。

目の前の低空をアオサギが横切っていった。ゲーゲーと美しい鳴き声とは程遠い声を響かせてゆったりとした羽ばたきをしながら東の方向に消えていった。夏真っ盛りに鳴いていた蝉の声はもうない。

韓国がIAEAの年次総会で、福島原発から出る放射性物質を含んだ処理水をめぐり環境への憂慮を示していると批判していた。
韓国では別のとき、大気中の放射能値についても言い掛かりをつけていた。東京とソウルではソウルの方が値が高かったらしい。そんな結果に対して韓国政府はどのようにおとしまえをつけるつもりなのだろう。知りたい。

数日前、小泉進次郎新環境大臣がこの原発処理水を海に放出するしかないと発言して炎上批判を受けたことは耳に新しい。
ただ、科学的には安全だという。しかし、福島漁民にしてみれば風評により危険とのレッテルを貼られてしまえば商売は成り立たなくなる。いったいどうしたらいいのだ。現在の状態は今後半永久的に続くのだろうか。原発敷地内に建設された夥しい数の処理済みタンクはいったいどこまで膨らめば良いのだろう?

 これらについて政治家は解答を指し示していない。そんな問題に対して小泉進次郎新環境大臣が発言した上記内容は迂闊と言われても仕方のないことなのだろう。

 しかし、この問題を今のまま放置しておいて良いわけはない。政治家はこの問題をどう思っているのだろうか。かれらが範を示せば国民は付いていくのではないか。政治家の本当の覚悟が求められる。

思うに、本当に安全と思ったならば処理水を少しずつ海洋に放出して、その海で獲れた魚を国会の議員食堂と東電の社員食堂に持っていき、彼らの食に当ててもらう。安全だと言うのだから安全なのだろう。国会議員が率先して福島の魚を食べることだ。そして議員さんは毎日食べていることを国民に訴えかけるのだ。テレビ局のカメラを食堂に入れましょう。小泉進次郎新環境大臣はそうした魚を真っ先に食べると良い。言行一致で好感度はアップするだろう。
誰が食べて誰が食べないか食堂にグラフでも掲げればもっと良い。そうすればその内に処理水を放出しても風評被害などどこかに飛んでいってしまうだろう。

こうした取り組みに協力しない人がいたならば、そんな人こそ信用のおけない人と言われるだろう。

日本人は嘘をつかないということをもっと世界にアピールしなければならないのだ。




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遅れて訪れたお月見 [ウォーキング瞑想]

《遅れて訪れたお月見》

雲に覆われて月の「つの字」もなかった。
薄雲のベールの向こうに見える円い月。雲一つない空に浮かんだ月も良いが少し遠慮がちな月もいい。
気温もまずまず。爽やかではないが涼しい。

ウォーキング瞑想、これを日本語で言うならば「歩行瞑想」でしょう。
禅の世界で座禅、立禅、動禅とあると言いましたが歩行瞑想は動禅の一種です。

大切なことは、力まないこと。何かを見付けてやろうとか必ず見付かるとか、そんな決心をしてはいけません。瞑想の世界はもっと自由なのです。私に歌の才能があればこんな月を見たときはきっと一句浮かぶことでしょう。残念ながら私にはそうしたものはありませんので、ただただ「すごいなぁ」と思うだけです。
でも、その気持ちの中には言葉に表すことの出来ない微妙な感覚があるのも事実です。

歩きながらふと思いついたことをぼんやりと流れるままに任せています。自分の意志を通さないことです。意志は即ち自我ですからそれは何かにとらわれた偏狭な結論を導き出していきます。

本当のアイデアはそういった心から離れたところから生まれてきます。

私が瞑想の世界に興味を抱くようになったのは、故福岡正信先生の『無』神の革命という本を読んでからです。この本は自費出版されたそうで、先生がまだ殆ど世に知られていなかった頃の話です。

 これから折に触れてお話ししましょう。

雲が切れると煌々と輝く月。今日がお月見だと言わんばかりに。

透き通った天空に浮かんださまは自然の神秘を表していた。

ウォーキングも終わりに近付くと月も西の空に傾いていった。

今朝は良いお月見をさせてもらいました。





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電線地中化と案山子 [ウォーキング瞑想]

《電線地中化と案山子》
今度の台風により千葉県の電力網の寸断は半端ではなかった。
未だに停電のままの地域が20万軒以上ある。

そこで出てきたのが電柱の地中化。
確かに、仮に今回の地域が地中化出来ていたとすると被害は最小限であったろうし、地域住民がこれほどまでに追い詰められることもなかったでしょう。

ただ、これから電柱を地中化するためには相当の労力と資金が必要となります。それを電力会社に負わせるのには無理があるように思います。電力会社では、電気を各家庭に供給することが使命であってそのやり方までは注文が付けられません。

本当にやりたかったのならばやはり、国と市町村とが協力して計画的に少しずつ進めることが必要でしょう。かなり長い期間を要する事業になると思います。風水害は勿論のこと地震も想定しなければなりませんね。しかしこれを成し遂げたならばその技術は世界に先駆けてモデルともなることでしょう。

国内ではまだまだインフラ整備が必要に思います。
GDPが伸びる要素があるようです。ひるまずに進めて行ってほしい。

台風15号の風の強さが樹木をなぎ倒していたことをみてもわかっていたけれど、運動公園の西の隅に設けられた小さな田圃を守れとばかりに12体の案山子があったものがすべてすっかりなくなっていた。その時は「アッ!」という気持ちと寂しさとが湧いて来た。
しかし、数日して1体が出現した。また数日して2体。そして今朝はその数が12体になっていた。以前と違って心なしか着ている服が垢抜けていない。でも稲穂を守る気概は感じられる。

来週からラグビーワールドカップが始まる。そのための準備も進んでいるようだ。





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岬めぐりは三浦半島? [ウォーキング瞑想]

《岬めぐりは三浦半島?》

今朝は風もあり取分け涼しかった。ウォーキングで初めて長袖のシャツを着て出かけた。

今朝は頭の中で「岬めぐり」の歌が頻りに鳴っている。山本厚太郞さんの創った代表作であり多くの人に親しまれている歌だ。
何故だろうと思うと一つ浮かぶのは最近カラオケで歌っているからか
この歌は気負うこともなく気楽に歌えるので喉慣らし声慣らしに丁度良い。そんなこんなで歌っているのですが、歌詞が耳に響く。

「二人で行くと 約束したが 今ではそれも かなわないこと」

失恋の歌なんだ。

「悲しみ深く 胸に沈めたら この旅終えて 街に帰ろう」

そんなふうに考えるとしんみりとしてしまう。
明るく楽しくはうたえない。

このような歌に限らず楽曲を演奏する時は作曲家の作曲動機にまで遡って追体験をしなければならないと20世紀の大指揮者フルトヴェングラーは自著で言っていた。

そんな、大層に構えなくても音楽に接するとき、私は常にそういうことを考えています。自分の心をそんな深層心理まで潜り込んで歌でも演奏でもするようにしています。そこで何が出てくるかはその時にならないとわかりません。
カラオケで歌っていても大概の歌が心にグイと突き刺さってくるのはその所為だろうなと思います。会ったことのない作曲家、作詞家でも心を共有しているような錯覚にさえなります。

ウォーキング瞑想を終えて、パソコンに向かい「岬めぐり」を聴きながらこうしてキーボードを叩いていると、至福の時を迎えます。





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かあさんへ [ウォーキング瞑想]

《かあさんへ》
今朝のウォーキング瞑想のなか、しきりに「かあさんへ」という題名の歌が頭の中で鳴っている。

最近、次回行う予定の老人施設へ訪問するときにうたう曲目をあれやこれやと考えているからだろう。対象とする人たちは恐らく平均年齢が85歳くらいとみているのですが、そのような皆さんが喜んでくれるにはどんな歌が良いのか中々難しいのです。

先月半ばに初めて訪問したのですが私自身が初体験であったため要領がわからなかった。この時に得た教訓を踏まえて次回は是非とも成功させたいと思っているのです。

この施設にあるカラオケでは思った選曲が出来ないのでギターを抱えて歌おうかと思ったのですが、スチール弦が指に食い込む。痛いこともありますが、うまくコードを弾くことができません。ほぼ初体験であり、何もかもがわからない状態ではギターの弾き語りなど出来るはずはありません。これもいつかはやるぞと思いつつ、どんな曲を好んでくれるのか悩んでいました。

「かあさんへ」は吉幾三が作詞作曲して自分で歌っています。年配の方々を自分の肉親のように思って感謝の気持ちで歌えば良いのだろうと思いました。

そんなこんなでいくつか浮かんできました。およそ10曲くらい歌う持ち時間ですからしんどくはありません。
11月が訪問月ですが、待ち遠しいです。





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無理せず焦らずウォーキング [ウォーキング瞑想]

《無理せず焦らずウォーキング》
ウォーキング瞑想で最も大切なことは無理しないこと。シェイプアップのためのウォーキングは今のこの歩きのようではないはずです。一般のウォーキングは歩幅を広く、手を振って早足で歩く。それが有酸素運動になれば理想的なのでしょう。

確かに痩せるためには効果的だと思います。

しかし、運動そのものに適さない私のような年齢とか気持ちを考慮するとそれは出来そうにありません。

歩くことが苦ではなく、歩いていることも忘れてしまうくらいが瞑想には丁度良い。
毎日のことですから、足腰や膝の関節を痛めては何もなりません。

ウォーキング瞑想で最近感じるようになったことは、もっと自分を見つめなさいということでした。
対外的に行動を通して発信してこなかったことにも反省しなければなりません。
そういった心の内の声を聴きながらのウォーキングをしながら帰途につきました。

帰宅して、テレビを点けるとクラシック倶楽部の途中でした。
ジャン・ロンドーというパリ生まれの若いチェンバロ奏者がバッハのゴールドベルク変奏曲を演奏していました。

聴き流すつもりが珍しく最後まで聴いてしまいました。

チェンバロという楽器はバロック時代の景色を色濃くしたように感じますが、強弱をつけることの出来ない楽器でありながらゴールドベルク変奏曲を立派に表現していました。

やはり、音楽は演奏家次第だと思いました。





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台風去って 190910 [ウォーキング瞑想]

《台風の爪跡》
昨日昼、公園の中に多く見られた台風で出来た水たまりはもうなかった。
その代わり強風により多くの樹木の枝にたくさんのダメージが見られた。倒壊している低木も数本見た。また、場所によってひどい状態とそうでないところがあることも不思議。風の流れには筋があるのか、少しズレただけで影響を受けていない樹などあったことも発見といえば発見でしょう。
雲龍柳の人の腕ほどもあろうかという枝がへしゃげて垂れ下がっていた。柳に風などと言うが、風にもよる。程度というものがある。風もある限度を超えるとそんな法則は役に立たないのだろう。

立ち入り禁止の池にはいつも5~6名の釣り人が入り込んでいるのだが、今日はいないだろうと思っていたが独り、いた。
針に引っ掛かった魚を外しにかかっていた。感心しない。

野鳥の餌場になっているこの場所は釣り人の存在によって来にくくなることは明らかです。しかも、釣り糸が悪さをするだろう。5時前のような早朝に監視員は来ない。これが実態です。

そんな時でも瞑想は出来る。ただ真っ白な心持ちで観察することが瞑想なのです。
江戸中期の臨済宗禅僧に白隠禅師という人がいます。
彼は「大悟十八ぺん、小悟その数を知らず」と言っていた方で臨済宗中興の祖と言われています。
臨済宗は主に公案で修行をするのでしょうが(私はやったことがないので)その文章はユニークです。

こうして、ウォーキング瞑想をしていますとそんなことが浮かんできます。時も所も変わっても悟りの世界は至る所にあるのだろうなと思いながら今日も歩き続けました。


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日本民族の気概 190908 [ウォーキング瞑想]

《日本民族の気概》
歩くことに慣れてくると自分の周囲の現実は在るのが当たり前のようになり、それと共に自分の周囲への感覚は失せていく。
これが普通の感覚でしょう。意識は『今の自分のこと』の中に入り込んで周囲のことは全くわからなくなります。

私が分離唱で学んだことは、例えば算盤の「ご破算で願いましては」と唱え、全ての桁を元に戻すということ。
すると私の心のカンバスはそれまで塗られていた色や形象の数々は雲散霧消して元の真っ新な姿になります。
その瞬間周囲の音が洪水のように入ってくるのです。

春から夏を経て、そしていま秋のはしりに足を踏み入れました。その間、ウォーキングをしている人の顔ぶれも変化してきました。
私の早朝ウォーキング歴は四ヶ月と少し。
食事も少し減らしたとはいえ、およそ10㎏の減量は嬉しい限りです。このまま行ってリバウンドしないことを願っています。

今聞こえてくる蝉の声はといえば、もうニイニイゼミだけだった。

《香港の雨傘運動》
先日このブログで書かせていただいた香港の雨傘運動ですが、彼ら若者たちは自分たちの将来を考えて必死に行動を起こしているように感じます。
武器を持たずに権力に向かうことは大変な勇気です。
電車内で何の武器も持たない運動員が無抵抗なのにも拘わらず警察官なのでしょうか、警棒で滅多打ちにしている様はほんとうに見たくなかった。
でもそれこそが中国共産党習近平政権の本当の姿だと思います。

そこに入れ込もうとする日本の企業はいったいどういう神経をしているのだろう。やはり、自分さえ、自分の企業さえ良ければ良いのだと考えているのだと思わざるを得ません。

アフリカや中東、また南米などで起きていること、それが母国を棄てて安心で安全な国に避難しようとする人々。とても可哀想だと思います。それも二つの意味を込めて。
一つは内乱状態になってしまった母国に自分の居場所がなくなったこと。国の政府に信頼が置けなくなったからでしょう。
もう一つは、母国のために戦えないこと。ただ逃げるという選択をしたこと。
その危険度に差はあるでしょう。しかし、天安門事件にしてもそうでしたが、命を賭けて自由のために立ち向かう姿を見るのは辛さがある反面神々しくもあります。
これは日本が大東亜戦争で示した日本人の姿でもあります。

それに先立つ明治維新を勝ち取るための日本国内各地での蜂起はやはり命がけのものでした。そうした先人たちの尊い犠牲のもとに私たちの今日があるのは紛れもない事実です。

それを顕彰しているのが靖國神社。

自分の命を賭けることはとてつもなく勇気の要ることですね。
『個』というおのれが消えて失せることなのですから。

個人主義の西欧文明ではその個は計り知れないほど大切です。
それが、日本ではどうでしょう。

「笑いながら死んでいく。」

「馬鹿を言うんじゃない。そんなことあるか。」

笑顔は自分の亡き後、家族が幸せになることを祈る姿でしょう。
でもそのさまを見ることの出来ない自分は心の中で泣いているのです。
日本文化は人の心の中に己の姿を見るのです。自他一如ということです。

今朝のフジテレビ、報道2001で新藤義孝さんが出演されていました。大東亜戦争末期に日本本土への攻撃を少しでも遅らせるための命をなげうった硫黄島の戦いで戦死された日本軍守備隊最高指揮官の栗林忠道陸軍中将の孫に当たる方ですが、今に生きて活躍されていることが嬉しい。
彼の祖父、栗林忠道陸軍中将は確かに硫黄島の戦いで命を落とされましたがその意志を継いでこんにち国会議員として活躍されていることはとても頼もしく思えたものです。

今の日本は果たしてそういった意志を持ち続けているのでしょうか。





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